令和二年春場所千秋楽
コロナ禍の最中での無観客開催もさることながら、初日と千秋楽における日本相撲協会・八角理事長の異例の言触れが話題を呼びました。
以下は千秋楽の挨拶の内容です。
千秋楽に当たり、謹んでごあいさつを申し上げます。本日、千秋楽を迎えることができましたことは、ひとえにテレビ、ラジオ、インターネット等を通じて、応援してくださったみなさまからのご支援、関係者によるご尽力のたまものです。心より感謝申し上げます。
この三月場所を開催することにあたっては、ひとつの信念がありました。
元来、相撲は世の中の平安を祈願するために行われて参りました。力士の体は、健康な体の象徴とされ、四股を踏み、相撲を取るその所作は、およそ1500年前から先人によって、脈々と受け継がれてきました。
今場所は過酷な状況下のなか、皆様のご声援を心で感じながら、立派に土俵を務めあげてくれました。全力士、そして全協会員を誇りに思います。我々は、これからも伝統文化を継承し、100年先も愛される国技・大相撲を目指して参ります。
令和二年春場所協会挨拶 日本相撲協会理事長八角信芳 2020年3月22日
日本相撲協会が春場所開催に踏み切った本音は「放映権を持つNHKへの対面上、易々と開催を中止にできない」というところだったと思います。
しかし、タテマエにせよ八角理事長はこの口上で「大相撲はだれのためのものか」を世間に問いたかったのではないかと、千秋楽を終えた今感じています。
大相撲は三つの異なる相を持っています。
一つ目はスポーツとしての相。力比べ(レスリング)は太古から全世界に遍在していました。空間的にも時間的にも人類史規模の相と言えるでしょう。ここでは、一義的には相撲はプレイヤー本人(力士)のためのものです。
二つ目は興行としての相。大規模な興行として相撲を成功させたのはモンゴルのブフと日本の大相撲だけであり、日本の大相撲は勧進相撲が盛んに行われ始めた江戸時代からの系譜を継いでいます。
この場合、大相撲は観客、ファン、後援者のためのものと言って良いでしょう。
これらの二つだけを考える限り、今回の春場所敢行の理由にはなり得ません。大相撲が力士もしくはファンのためだけのものであるのなら、力士を危険に晒してまで(TV中継されるとはいっても)観客のない興行を実施する意義は見出しづらいのです。
最後の一つ。神事としての相。
奉納相撲として有史以来から日本の神事とのかかわりの深い相撲が、実際に(制度として土俵上から女性を排したり)国技・神事としてより有徴化され始めるのは明治期からだったりするのですが、、、
ともあれ八角理事長が強調したかったのは、相撲の神事性です。
神事としての大相撲という場合、その射程は相撲ファンはおろか、全世界の人間にすらとどまりません。
“天地(あめつち)の全ての霊的存在”になります。
「大相撲は、動植物や自然現象、祖霊を含む、全世界の霊的存在(“八百万の神”と言っても差し支えない)に対する祈願行為であるから、開催によってたとえ一部の相撲ファンに不快感をもたらしても、相当数の力士をコロナ感染のリスクに晒してでも、中止するわけにはいかない」
これが八角理事長の口上の行間に隠された論理だと思います。
平成の相撲界は親方株や八百長、暴力問題におけるガバナンスの欠如などの問題が露呈し、相撲協会の「公益性」が問われましたが、あくまでこれらは協会内の統治や利益分配の話であり、大相撲そのものの公益性にかかわる根本的な問題ではなかったように思います。日本相撲協会解体の原因にはなり得ても、大相撲自体の存亡には関わりがありませんから。
「だれが享受するのか。」
これが大相撲自体の公益性に関する最も始原的な問いです。
それと同時に角界の「外に開かれた」問いでもあります。 だからこそ、八角理事長は敢えて初日と千秋楽の協会挨拶口上という注目度と波及力の髙い場を選んだということでしょう。
異例ずくめの春場所でした。
千秋万歳。
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